【ご注意】
このお話は、「らせんの上で悪魔と踊る」のオマケ的なモノです。

「らせんの上で悪魔と踊る」を読んでいない方は、
ネタバレになりますのでご注意ください。
本編終了後の、始と匡のお話です。
年齢制限の必要なお話ではありませんが
、「暴力、無理やり」な表現が少しあります。
苦手な方はご注意ください。






決してその場の勢いだけではない。悩んで考えて、真剣な思いを告げたはずなのに、それはちゃんと伝わらなかったらしい。

 告白を聞いたはずの始の表情は、喜びも嫌悪も現しておらず、ただ「無」だった。

「俺の話、ちゃんと聞いていたか?」

 なんだかしまらないなと思いながらも、心配になって声をかけてみたのだが、やはり反応は変わらない。

 恥かしいがもう一度言いなおそうと思ったとき、始は首を傾けて何かを考えるような素振りをした。

「うーん」

始は小さな唸り声をあげると、再び口を閉ざす。

いくら待っても返事は返って来ず、始は首を捻るばかり。

 待たされれば待たされるほど緊張感は高まる。そろそろ何か言ってもらわないと、頭がおかしくなってしまいそうだ。

 もう一度だけ返事の催促しようと思ったとき、始は小さく「そっか」と呟き頷いた。

返事が返ってくる。心臓が飛び出してしまいそうな気がして、胸を押さえながら耳を澄ます。

「じゃあ、もう匡ちゃんの家に一人で来るのはやめにするね」

 告白に対する返事なのだから、「はい」か「いいえ」といった意味合いの言葉を聞けると思ったのに、全く違うモノが返って来て混乱する。

 なんとか意味を理解しようと、頭の中で始の言葉をゆっくりと復唱してみた。

『じゃあ、もう匡ちゃんの家に一人で来るのはやめにするね』

 家に一人で来るのをやめるなんて、もっと前に聞かされていたのなら大歓迎していただろう。

 昔から人の持ち物や行動を羨ましがる事が多かったので、一人暮しをすると伝えたとき、始は「ボクも一人暮しをする」と駄々をこねた。学生の始が一人暮しをするには親の許可が下りなければ叶わない。両親との間にどんなやりとりがあったのかは知らないけれど、いつのまにか始は一人暮しをすることについて触れなくなった。そのかわりに、人の新居に当たり前のような顔をして出入りするようになる。鬱陶しかったが、家族仲が悪いことは昔から知っていたから少しだけ心配になって、「いつでも遊びに来い」なんて優しい言葉をかけたことが大間違い。最初は一晩だけ。次は二日続けて。今度は三日と、宿泊する日数がどんどん増えていき、気がつくと合い鍵まで作られていた。

今では、ほぼ同棲状態になっている。

 そんな暮しに慣れはじめたところだったので、言葉の意味がまったく理解できない。

 あれこれと考えている間にも、始は部屋を出る為の荷造りをはじめている。タンスから自分の服を引っ張り出し、「他の大きなモノは後で取りに来るね」と言って笑う。

 告白に対する返事をまだ貰っていないと抗議しようとしたとき、気がついた。

 一人で家に来ないとは、つまりそういう意味なのか?

 始はちゃんとした返事はせず、曖昧なその言葉から察しろと言っているのだ。

 洋服をたたんでいる手を掴んで引き寄せると、始はいつも通りの笑顔を見せた。

「なに? もしかして、この服を洗わせた事を怒っているの?」

 スパンコールがたくさん貼りつけられた派手なシャツをかかげて不安そうな顔をする。確かにそのシャツの洗濯には神経をすり減らせた。見たこともないようなナゾの素材で作られたシャツを前に、半分泣きながら母親に電話をして手入れの仕方を教わったのでよく憶えている。洗濯をしながら、始にいいように使われているとため息を吐きつつ、頼られているのだとも思い、嬉しくなった事もしっかりと憶えている。

今はそんな事、関係ない。

 告白なんてなかったかのような、いつも通りの笑顔。何事も無く家を出ようとする始の行動は、真剣な気持ちを踏みにじっているようにしか思えなかった。

 思いを受け入れられなかった事に対して怒っている訳ではない。同性同士だし、こちらは10歳も年上だから、ふられる事だってちゃんと覚悟していた。

 腕を掴んだまま黙っていたからか、始は不思議そうな顔する。

「掃除はちゃんとやってから帰るよ。だからそんなに怒らないで?」

 いつもと変わらない態度と笑顔。この笑顔の裏に、どんな気持ちが潜んでいる?

「同性相手に告白なんて、正気か?」

「10も歳が離れているのに」

「4つの頃から世話になっているから、気を使ってあげているんだ。察しろ」

「キモチワルイ」

告白の返事が聞きたいだけなのに。

真剣な思いをなかったことにされてしまう事だけは、許せない。

許してはいけない。

いつも通りの笑顔がたまらなく憎らしくて、メチャクチャにしてやりたいと思った。

頭に血が上りすぎたのだろうか。意識がぼんやりして纏まらない。始との思い出が、頭の中で次々と浮かんでは消えていく。

そんな朦朧とした意識の中、「誰か」の手が始のシャツの襟を掴んで締め上げている姿が見えた。

 

「見なれた誰か」の手が、散乱した洋服の中、嫌がる始を組み敷いて乱暴している。

 

意識は少し引いたような場所から。けれど視界は特等席で、困惑する始を見下ろしている。

見なれた手は、めちゃくちゃに暴れて逃げようとする始を押さえ込む。手に力を込めてやると、恐怖を感じたのか始の動きはだんだんおとなしくなり、抵抗しなくなる。もうあきらめたのかと思ったとき、腹部に激しい痛みを感じた。見ると、始の膝が腹を蹴り上げている。それがなぜか可笑しくて、笑いがこぼれた。

「何が可笑しい」

怒りを含んだ始の低い声が響く。

今度は嬉しくなってきて、両手で包むように始の首に触れた。喉仏の上に親指を乗せて、軽く押す。いつでも握り潰すことができる。その意味を察したようで、始は一度だけ体を大きく震わせて動く事をやめた。

右手は首を掴んだまま、左手は顔の上半分を覆うように移動する。右手の親指に軽く力を入れながら、ゆっくり顔を下ろして唇をあわせた。

「いい子だ」

散乱している服の中から適当な大きさのものを掴むと、押さえている腕と足を縛りあげ、始の自由を完全に奪い取った。

「見なれた手」は始の服を引き裂き、直接肌に触れていく。

後は下品で乱暴な展開がひたすら続くだけ。

それを特等席で眺めながら、今、始を犯しているのは誰なのだろうとぼんやり考えた。

 


―――Who am I?

 


自分の中に、得体の知れない誰かがいる。

そんな違和感に襲われたのは、とても小さい頃。

何かに夢中になったり、ひどく腹が立ったとき、気持ちに反して体が勝手に動き出すのだ。その間は喋りたい事も喋れず、まるでテレビでも見ているような状態になってしまう。テレビとして見ていられるのならまだ良い方で、意識もなく、気がつくと何時間も過ぎていたなんて事もあった。

自分の中に、何か悪い奴がいる。

悪い奴とは何だ?

絵本で読んだオバケ、友達に聞いた妖怪、テレビで見た怪物。

一番恐いと思ったのは、母に教えられた「悪魔」というモノ。

きっと、自分の中には悪魔が住みついており、ときどき体を乗っ取られているのだ。

恐ろしくなって両親に相談したのだが、「男の子なのだから乱暴でも仕方がない。むしろ、今までがおとなしすぎた」と笑われ、深刻な気持ちを理解してもらうことはできなかった。

小学生になったとき、「二重人格」という言葉を知る。名前はもう忘れてしまったが、同級生だった女の子から「匡はAB型だから二重人格だね」と言われたのだ。その言葉はストンと心の中に収まり、これこそが悪魔の名前なのだと理解した。

「二重人格」なんて言葉があるということは、自分以外にも悪魔にとりつかれた人がいるはず。独りきりではないということに安心して、少しだけ気持ちが楽になった。

怒らず、興奮したりしなければ悪魔は出てこない。きっと他にも同じような悩みを抱えている人がいるだろうから、自分もがんばろう。

前向きな気持ちを持つのと同時に、都合良く使いたいなんていう下心もあった。どちらかと言うと気が弱い方だから口答えができないし、暴力を振るわれると反撃ができない。けれど、二重人格の悪魔は普段の自分とはまったく逆の性格だから、暴言も暴力も得意。誰かに虐められたら二重人格の悪魔がどうにかしてくれる。

そんな期待もしたけれど、奴は所詮悪魔。加減を知らないのだ。何度も失敗を繰り返し、結局二重人格の悪魔には頼ってはいけないという事を学んだ。

中学生になった頃、「二重人格」とは別に「総合失調症」という言葉を知る。

知らない「誰か」を心の中に抱えてしまうという精神の病気で、その症状はいくつも自分とあてはまる部分があった。

「悪魔」の正体は心の病なのかもしれない。医者に見てもらって、ちゃんと治療する必要があるのではないだろうか。悩んだけれど、「悪魔」は相変わらず興奮したり激しく怒ったりしないかぎり出てこない。病院に行くということに対して抵抗もあったので、このまま様子を見る事にした。

自分の中に住んでいる「悪魔」のことは、誰にも相談できない。不運にも「悪魔」と遭遇してしまった人たちは、「普段がおとなしいから怒らせると恐い」と言い、それが普段の「俺」ではなく、「悪魔」の仕業であることを誰も気付かない。

周りの反応は「悪魔」の存在を知られたくない自分にとってありがたいものであり、同時に不満でもあった。

 

暴れているのは「悪魔」だ。「俺」じゃない。

誰にも知られたくはないけれど、知って欲しいとも思う。

だから、思い切って誰かに伝えてみることにした。

人数はできれば一人だけ。なるべく深刻にならず、冗談だと笑い飛ばしてくれそうな人。

頭に浮かんだのは、同じ部活に所属している幼馴染の顔だった。

 

いつも通り部活の仲間と買い食いをして、交差点で別れる。

友達の後ろ姿に手を振りつつ、七緒と二人きりになったことを確認して口を開いた。

「俺、変なんだ」

真っ赤な夕日を背にした七緒は、無言で顔だけをこちらに向ける。

真剣な表情を見て少しだけ後悔したけれど、もう遅い。話すと決めてしまったときから妙に興奮していたらしく、言葉を止めることができなくなっていた。

「俺の中には悪魔がいる」

ツバが飛ぶことも気にせず、呼吸する事も忘れて喋りまくる。一人きりで悩み続けた数年をすべて吐き出してしまう勢いで、悪魔がどんなに危険で恐ろしく、自分とは関係のないモノだということを主張する。

一通り喋り終えたときには呼吸が乱れ、全身から冷たい汗が噴出し、指先が震えていた。

変な目で見られているのではないかと、恐る恐る七緒の様子を伺う。

夕日を映してわずかに赤くなった七緒の顔は、真剣そのもの。

咄嗟に「冗談だ」と言おうとしたけれど、今更遅い。

「なるぼと。確かにその悪魔は野放しにできないな。対策を練らないと」

予想外の言葉に、張り詰めていた気持ちが少しだけ緩む。

「対策って、具体的にどうしたらいいんだ?」

「悪魔が出てくるのは感情が高ぶったときなんだろ? それなら、なるべく平常心でいる事が大事だね。主導権を悪魔に譲らず、自分をしっかり持てばいい。そうすれば、悪魔は何もできない」

感情を押さえて悪魔をコントロールするという事は、唯一思いついた解決策だ。結局のところ、それ以外に方法はないのだろうか。

悪魔の話しを否定されなかったことに対する安心感と、結局何も変わらなかったという残念な気持ちから大きなため息が出る。

「感情のコントロールで悪魔を押さえ込めるって聞いて、安心したのか?」

「違う。安心なんてしてないけど、結局は悪魔を退治する方法はないのかなって」

「退治? そんなの無理だよ。悪魔って言うのは、一度とりつかれると一生離れないものなのさ。常に体の内側で息を潜め、匡の様子をうかがっている。気を抜いているとすぐに顔を出して、主導権を奪いに来るだろう。追い出す方法を探すよりも、ソイツと上手くやっていく方法を探した方がいいかも知れないぞ。場合によっては、使える存在かも知れないし」

「悪魔」について詳しく語る七緒はなんだか不気味で、いつもとは違うように見える。姿形は七緒だけれど、中身が違うような。

「何でそんなに、悪魔について詳しいんだ?」

赤く滲んだ夕日に輪郭を照らされて、長くて深い影を落した七緒が笑う。

「俺も、その悪魔を飼っているからだ」

見なれたはずの笑顔はぼんやりと揺らめいて、心の奥を覗かれたような錯覚に襲われる。慌てて目を離して深呼吸した。これはただの見間違い。きっと、夕日の赤が目に染みただけ。

「なあ匡、その悪魔を飼い慣らせたら真っ先に教えてくれよ。約束だぞ。そうしたら、匡は食べ頃になるんだから」

何処かから、舌なめずりするような音が聞えた。音がした方角は、恐くて確認できない。

七緒はゆっくりと歩き出す。

置いて行かれるのが恐くて、慌ててその背を追いかけた。

 

悪魔の話しはそこで終わり、自然にマンガやゲームの話しに変わっていく。話題はころころと変わり、いつも通りの楽しいものになる。

「そういえば、最近弟ができたんだ。匡も見に来いよ」

「弟? じゃあ、しばらくはお母さんと一緒に暮せるんだ」

七緒の両親は仕事が忙しいらしく、あまり家に帰って来ない。寂しくはないのかと聞くと、「匡がいるから平気」という見当違いな返事をしてきた。家事はすべて通いの家政婦がしているので不自由はないだろうし、ひとりで過ごすことに慣れているようだから本当に平気なのだろう。

「母さんは帰ってないよ。来たのは弟だけ」

「もしかして、体調が悪いとか?」

「違うって。母さんが産んだんじゃない」

深く聞いてはいけない話題な気がしたけれど、七緒はまったく気にしていないようで、笑いながら話し続ける。

「妾の子だよ。今年で4歳なんだけど、そいつの母親が死んじゃったからウチで面倒見ることになったんだ。昼は木村さんが面倒見てくれるけど、夜は二人だけになっちゃうだろ。俺、子供苦手だからさ、匡が来てくれると助かる」

気がつくと七緒の家の前まで来ており、門の向うには小さな男の子が立っていた。

「調度いいや。今から見て行けよ。名前は、始って言うんだ」

痩せた小さな男の子、始は何かに怯えたような目でこちらを見上げ、おずおずと手を伸ばしてくる。小さな手を取り、「よろしくね」と声をかけたのに、なぜか不思議そうな顔をされてしまった。せっかく手を繋いだのだから、笑ってくれればいいのに。それからは、なんとかして始を笑わせようと必死になって色々な事を試した。

一緒に遊んだり、勉強を教えてあげたり。だんだん始も笑顔を見せる回数か増えてきて、いつのまにか誰よりも懐いてくれて。

すべては始の為にした事ではない。

始の笑顔を見てみたいという、自分の望みをカタチにしただけ。

その結果が、始の幸せに繋がったのなら嬉しく思う。

 

それなのに、今は――

 

悪魔を開放したのは、いつが最後だっただろう。

始の歯軋りの音を聞きながら考える。

そうだ、最後に開放したのは「あのとき」。それがきっかけで、ドラムをやめてしまったのだ。あまり良い思い出ではないので、急いで記憶の詳細を封印する。アレがきっかけでドラムをやめて、始がもう一度チャンスをくれたのに。

泣き声も悲鳴もあげず、ひたすら我慢して歯軋りを響かせる始を見下ろしながら腰を振る。

今「悪魔」が現われているのは、始の曖昧な態度が原因。

この陵辱は、「悪魔」によるもの。

歯軋りと、荒い呼吸が響く薄暗い部屋の中、呪文のように唱え続ける。

「俺のせいしゃない」

 

 

 

まるで雨の中を走りぬけてきたように全身が濡れている。寒さからのなか、疲労のせいか、体が震えた。

すぐにでも眠ってしまいたいけれど、まだ後始末が残っている。

転がっている始の体に手をかけると、ピクリと体を震わせて逃げられた。始に避けられたのだと思うと、今更ながら悲しくなる。

「じっとしていろ」

始の体を拘束している服の結び目に手をかける。かなり激しく暴れていた為か結び目は硬くなっており、手首には赤い擦りギスがくっきりと付いていた。結び目は手でほどく事はできそうにない。ハサミで手首と足首の結び目を切り落とす。

体を拭いて傷口に薬を塗ってやろうと思ったのに、始は自由になった途端立ち上がり、近くに落ちている自分の服を拾い上げた。

「体を洗ってから服を着たほうがよくないか?」

体液に汚れた体を拭いもせず、下着も着けずに手早く服を着る。

「バンドは続けたいんだ。だから、みんなの前では忘れたフリをしてやる。でも、許さない。お前はボクの信頼を裏切った。ボクを力ずくで奪おうとした。だから、絶対に、絶対に」

始の声は擦れていて弱々しいのに、目だけはギラギラと突き刺すように光っている。

「ボクはお前を許さない。何があっても、一生、永遠に、絶対に許さない!」

そう宣言すると、始はふらつく足取りで部屋を出ていった。

時刻は深夜を過ぎている。

ボロボロの状態で街中をふらつかせるのは心配だけれど、こちらの疲労もピークを迎えている。なにより始を追いかける勇気がなくて、すべてを忘れるように眠りについた。

 

 

 

何をしていようと、朝は必ず来てしまう。

希望に満ちているか、絶望に彩られているかは夜をどう過したかによって変わってくる。

 

重い体を引きずり起こし、散らかった部屋の中で小さく肩を落した。

始とは兄弟のように接してきたから、彼と性的にどうにかなる日が来るなんて、少し前までは想像もしていなかった。

すべてはバンド活動がきっかけだったと思う。

遊びながら練習しているだけならよかった。発声の仕方も知らない、少し歌が上手なだけの素人の歌ならなんとも思わない。そんな素人のはずの始は、ステージに上がると化けるのだ。

ステージに立った経験なんてほとんどないはずなのに度胸があり、体の小ささを感じさせないほどの存在感がある。

歌は相変わらず少し上手なだけの素人だけど、声質が良いのか艶があって個性的。なにより、その表現力に驚かされた。はずかしげもなく感情豊かに歌って動く姿は魅力的で、目がはなせない。4歳の頃から始を見てきたけれど、ステージ上で歌う姿は本当にキレイで。

そのとき、始のことを真剣に欲しいと思った。

今回の暴行は「悪魔」が勝手にしたことだけれど、それを止められなかった事に深く後悔する。

確かに始に対して性的な衝動を押さえていたけれど、こんなカタチで実現したかったわけではない。

深く後悔しているはずなのに、体はいまだに妙な興奮状態が続いている。これはつまり、本音では後悔はしていないという事か。

当たり前だ。すべては「悪魔」のせいなのだから。

何度も何度も「自分のせいじゃない」と繰り返す。けれど罪悪感は消えてくれない。

熱くなった頭をシャワーで冷やし、出勤準備をする。

始は律儀だからみんなの前では何もなかったフリをするだろう。

問題は、二人きりになったとき。そのとき自分はどんな顔をして、始はどんな顔するのだろう?

 

 

 

いつも通り学校に出勤して、いつも通りに授業をこなし、放課後をむかえる。本来なら放課後は指導している部活に出るのだけれど、何かを教えている訳ではないので毎日行く必要はない。

今日は帰ってしまおうかと思ったけれど、気がつくと足は部室に向いていた。

学園祭のステージで失敗してからメンバー内で微妙な空気が続いていたが、最近は少しずつ回復しているようだ。どんなやり取りがあって回復したかは知らないけれど、子供達が仲良くしている姿は見ているだけで嬉しくなる。

いつも通りに軽く声をかけて扉を開く。

真っ先に充が顔をあげで挨拶をして、次に伶が無表情のままこちらに顔を向ける。修二がゆっくりと手を振り、最後に始が笑顔で側に寄ってくるのだが。

「始は来ていないのか?」

充は始が来ていない理由を知らないようで、首を横に振りながら修二の顔を見る。修二は首を傾げると、「言ってなかったっけ?」と呟いた。

「なんかね、バイトはじめたらしいよ」

「バイト? 始が? 何の? できるの?」

始がいないのをいいことに、充は大袈裟に驚いて見せる。普段から始にからかわれているので、仕返しのつもりなのだろう。

充の心理をしっかりと理解しているであろう修二は、ふざけている姿を生暖かい笑顔で眺めている。

「世間に揉まれて、少しはオトナになってくれるといいねぇ」

その意見には賛成なので、思わず無言で頷いた。

「それで、おぼっちゃまの始クンはどんなバイトを選んだの?」

「そこまでは聞いてない。でも始にできるバイトって言ったら限られてそうだし。何をやっているかと考えただけで、ちょっとワクワクしてくるねぇ」

妙に盛り上がっている二人を無視して、伶は相変わらず不機嫌そうな顔でなぜかこちらを睨んでいた。充や修二ほどとは言わないけれど、もう少し始に対して興味を持ってあげて欲しいと思えるほど無反応だ。

充は無言でいる伶の肩を軽く叩き、会話に参加させようとする。

「ねえ、伶ちゃんはどんなバイトだと思う?」

「さあ? 興味ないし」

「でもさ、コンビニおにぎりの包装も剥がせない不器用な始が、バイトだよ? 豆腐が何から作られているかも知らないくらいアホで、キュウリとなすの味の区別がつかないくらい舌バカで、年上を敬うこともできないような無礼者、小学生だって知っている『友達を犬のように見下しちゃいけない』っていう倫理観すらない始が、バイトだよ?」

後半は私怨が滲み出したような発言で、なんだか悲しくなる。充は普段、始からどんな扱いを受けているのだろう。

「何をしようと始の勝手だから、別にいいんじゃない?」

伶が冷たく言い放ったためか、充はそれ以上悪乗りできなくなったようで口を曲げた。

「そりゃあ勝手だけどさ。人が練習サボるとオニのように怒るくせに、自分は勝手に休むんだもんな。もういいや。練習はじめよう」

三人はそれぞれの楽器を担ぎなおすと、練習に戻った。

始についてもう少し詳しく聞きたかったけれど、練習を遮ってまで聞くようなことではない。

ぼんやりと立ち尽くしていると、伶が手招きをしてくる。

「匡先生も一緒に練習していくんでしょ? 早く来なよ」

本当はただの顧問のはずなのだが、学園祭の前にドラム担当の生徒が抜けてしまったので、臨時で参加していた。子供達と一緒にバンド活動をするのは楽しいけれど、いつまでも続けられることではない。もう学園祭は終わったのだから、そろそろ新しいドラムを探す必要があるだろう。

「今日は顔を見に来ただけだから」

軽く手を振って部室を出る。

部室を出た後、戸締りと掃除について注意する事を忘れたことに気がついたけれど、戻るのは面倒だったからやめておいた。

 

ふいに何かに引っ張られて立ち止まる。振り向くと、伶がシャツの裾を引っ張っていた。

「伶? 練習はどうしたんだ?」

「待たせてあるから平気」

バンドの中で一番横柄なのは間違いなく始だけれど、伶もかなり自由に行動している。始のような派手さはないけれど、地味にとんでもない事態に巻き込まれていたり、無理をしすぎて倒れたりしているので常に注意してやる必要があった。

伶は始と違って、ただ世話をやけばいいという訳ではない。あまり近付きすぎると邪険にされるし、放置しすぎると捻くれる。距離感がすごく難しく、未だに伶の性格はつかみきれていない。

伶についてわかっている事といえば、小柄でおとなしそうに見えるのに口がすごく悪いということ。その内容は妙に鋭いところを突いていて、胸に刺さって忘れられなくなることもある。意識して暴言を吐いているのかといえば違うらしく、伶自身も意味がわからないなんて事もしばしばあるようだ。無意識に他人の心を読んでいるのか、それともタイミングが恐ろしく良いだけなのか。

驚かされると言えば、誰にも気を使わない始が、なぜか伶には頭があがらないらしい。

やはり伶には何か得体の知れない力でもあるのだろうか?

「匡先生さ、始とケンカしたでしょ?」

伶はなんとも言えない不気味な笑顔を見せて、聞いて欲しくないことを聞いてくる。

「ケンカなんて、してないぞ」

思わずそう答えたけれど、実際にケンカにすらなっていないのだからウソではない。

「ウソでしょ。だって、先生すごくションボリしてるもん」

ションボリしている自覚はないけれど、他人からはそう見えているのだろうか。伶にわかるのなら、充や修二にもバレバレだったのだろうと心配になる。

ごまかす様に伶の頭を撫でた。伶は「子供扱いするな」と怒りながらも抵抗せず、おとなしく頭を撫でられている。

「そんな風に見えたか?」

「見えるよ。なんか、この世の最後みたいな顔してる」

「どんな顔だよ、それは」

ションボリしているのかと言われれば、そんなような気もするけれど、いまいちピンとこない。

「失恋でもしたんじゃない?」

その言葉で、一気に昨夜の事を思い出す。

途中から「悪魔」が出てきてしまったからすっかり忘れていたけれど、告白の返事すらもらえなかったという事は、つまりはそういう意味。

悪魔の方がショックだったから、すっかり忘れていたのだ。

「どうしたの?」

いつのまにか、伶の頭を撫でていた手が止まっていた。慌てて伶の頭から手を離す。

「どうもしないさ」

「ねえ、慰めてあげようか?」

そう言うと、伶はなぜか背中に貼りついてきた。スキンシップは苦手だと言っていたけれど、今日は機嫌が良いのだろう。

「大丈夫だよ。ションボリしているとしたら違う理由だから」

「違う理由って、なに? 教えてよ」

「なんというか。自分でもよくわからん。でも伶が心配するようなことじゃない」

「じゃあ、始なら心配してもいいの?」

一瞬、息を飲む。

「なんで始の名前が出てくるんだ?」

「始と関係あるんでょ」

「ないぞ」

「うそつき」

伶は思いきり人の足を蹴りつけると、舌を出して走り去ってしまった。

昔は人見知りが激しくてまともに会話すらしてくれなかったけれど、今ではすっかりうちとけてくれているようで、遠慮がない。嬉しいことだけれど、ときどきもう少し遠慮して欲しいとも思う。とくに、突然の行動と意味深な言葉には悩まされる。

ションボリしている理由。

伶には言わなかったけれど、原因は始だけではない。「悪魔」だ。自身の中に潜む悪魔の存在。

中学生の頃に親友は悪魔を飼い慣らしていると言っていた。いい大人であるはずの自分は、いつまでたってもそれを飼い慣らせていない。この差は、何にあるのだろう。

七緒にあって、自分に足りないモノ。

たくさんありすぎて、よくわからない。

 

 

 

意識していないときは良く会うのに、会いたいと思うと会えない。今がまさにその状態で、始と会えない日が続いていた。

けれど、実際に顔を会わせたとしても何を話して良いのかわからない。

まずは暴行に対する謝罪をするべきだろう。

その後は、どうしたらいい?

あれこれと考えながら歩いていると、タイミングが良いのか悪いのか、目の前に始が立っていた。

始の方もびっくりしているようで、目を丸くした後に唇をきつく噛みしめる。あからさまに警戒しているようだ。

「ひとりなのか?」

声をかけても返事は返って来ない。近寄ろうとすると、始はこちらを睨んだまま後退りした。

「バイトはじめたんだって?」

「お前には関係ない」

「お前」と言われ、呼ばれ方が変わった事に気がつく。

始が「匡ちゃん」と呼ぶものだから、それを聞いた他の生徒たちも面白がって「匡ちゃん」と呼ぶようになってしまった。今では「先生」なんて呼んでくれるのは、伶くらいではないだろうか。恥かしいので学校では「先生」と呼んでくれと頼んだけれど、小さい頃からのクセだから治せないと断られたのだ。

呼ばれ方が変わった事を意識すると、胸が苦しくなる。それだけ深く始を傷つけてしまったということか。

「なあ、始」

謝罪の言葉を口にしようとしたとき、始は突然耳を塞いで震えだした。

今は何を言っても通じない。

その事実が苦しくて、無言でその場を立ち去った。

 

 

 

「悪魔め、どうしてくれるんだ。なんてことをしでかしてくれた」

悪魔さえいなければ、始と今まで通り接することができた。

悪魔さえいなければ、始に拒絶されることもなかった。

悪魔さえいなければ、始を苦しめずにすんだのに。

無意識に呟くと、どこからともなく大きなため息が聞えてくる。

「おいおい、いいかげんにしろよ」

振り向くと、首をすくめて両手を小さく上げた人物が立っていた。

「お前が悪魔だな」

強く睨みつけるのだが、顔はなぜか真っ黒に塗りつぶされていて見えない。

「俺が悪魔? 違うって。俺は悪魔じゃない。俺は」

塗りつぶされた黒が大きく歪み、ゆっくりと目、鼻、口が現われる。

「俺は、オマエの本能だ」

そこには、見なれた自分の顔があった。

 

驚いて目が醒める。

電気も消さずに部屋の真ん中で眠っていたらしい。

夢だ。全部悪い夢だと跳び起きようとしたけれど、体が重くて思うように動かない。

腕を突いてゆっくり起き上がると、破れた始の服が視界に映り、現実に引き戻される。

「俺はオマエの本能だ」

幼い頃から悩まされていた悪魔の正体は、自分自身。

認められない自分の本能。

その存在に気付かなかったなんて、どこまでマヌケなのだろう。

絶望的な状況なのに、なぜか気持ちはスッキリとしていた。

 

 

以前は始と過す時間はたくさんあったのに、今ではすれ違う事すらほとんどなくなっていた。たまに会うことがあっても、顔を見ただけ何処かに行ってしまう。前は暑苦しくなるほど側に寄って来て肩や腕に触れていたのに、それもなくなった。話しかけても無反応で、すぐに耳を塞いでしまう。近い距離にいる間は決して背中を見せず、緊張したようにこちらの動きを常に警戒している。

始との関係は、完全にギクシャクしたものになってしまった。

その反応は当たり前のことで、傷つくけれど我慢するしかない。

乱暴した自分が悪いのだから、これくらいで許されるのなら受け入れるべきだろう。

これだけ拒絶されているのだから、いっそ始のことをあきらめてしまおうかと思ったとき、心の中で悪魔が呟く。

「あきらめる必要があるのか?」

もともと始からは兄くらいにしか思われていなかった。今はただの暴漢にまで落ちてしまったけれど、コレ以上落ちることはもうない。それならば、恐れるモノは何もないはずだ。

 

始と話がしたくて、部室に通い続けた。修二や充、伶がいるときは何事もなかったように喋ってくれるけれど、態度はそっけない。近寄ろうとすると、「今日はバイトがある」とか、「家の用事がある」とか上手い具合に言われて逃げられてしまう。

拒絶されるたびに少しだけ傷ついて、まだこんな感情が残っていたという事実が可笑しかった。

そろそろ行動してもいい頃だ。

やっと気持ちがまとまったのだから、それを伝えたい。

 

逃げるように部室から出ていく始を追いかける。

「始」

声をかければ立ち止まってくれるかと思ったけれど、それももう叶わないらしい。

逃げられるのならどこまでも追いかける。ただ、それだけのこと。

「始、この前のことだけど」

「許さないし、聞きたくない」

歩も止めず、始は冷たく言い放つ。

以前ならこの態度だけであきらめてしまっただろうけれど、今は違う。

内なる悪魔の存在に気がついたから、これからは楽しんで対応できる。

「許してくれなくてもいいよ」

始は体をピクリと震わせて立ち止まり、驚愕の表情を見せた。こんな顔をした始を見るのは初めての事で、妙に嬉しくなる。その反応を笑顔で受けとめると、驚愕の表情は嫌悪へと変わっていく。

「あの夜のこと、許してくれなくていい。後悔してないから。始、やっぱり俺はお前が好きだ。愛してくれなんて言わない。でも俺は、始を愛している」

唇を小さく振るわせると、始は眉を顰めた。これは、怒りを通り越してあきれているときの表情だ。

「なにそれ。謝るんならともかく、自分勝手過ぎるよ。どっかオカシイんじゃない?」

「そうだな。おかしくなったのかも。でも、その原因を作ったのは始だぞ」

「意味わかんない」

吐き捨てるように呟くと、始は逃げるように走り出した。

「意味なら、きっと始が大人になったときにわかるんじゃないかな?」

走り去る姿を眺めながら、ふと気がつく。

始にはいつも振り回されていたけれど、逆に振り回してやったのは今日がはじめてだ。

さすがの始も内なる悪魔には敵わなかった、という事だろうか?

「してやった」という気持ちと、「やっちまった」という気持ちでグチャグチャになっているのに、不思議な事にこの感覚は心地よい。

新しい自分の発見。否、真の自分の発見。

大きく息を吐いて、腕時計に表示された日付の部分を確認する。

今日はちょっとした記念日になった。

 

 

 

悪魔は飼い慣らせそうもない。けれど、受け入れる事はできそうな気がしていた。

七緒は「飼い慣らしたら連絡してほしい」と言っていたけれど、もう連絡して良いだろう。

手帳を開き、七緒の電話番号を探す。連絡を取るのは本当に久しぶりだ。前に会ったときは「教師なんてやめて、俺専属の秘書となれ。もちろん、秘書と言っても公私共にという意味で」なんて冗談を言っていたけれど、今はどうしているだろう。仕事が忙しいと言っていたけれど、七緒はいつだっておかしいくらい元気だったから、きっと変わらず自分勝手にバカな事をしているに違いない。なにしろ、「悪魔」を飼い慣らしているのだから。

 

「七緒か? 久しぶりだな。あのさ、ちょっと報告と言うか、聞いて欲しいことがあるんだけど……」

 

 

【終】

 

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